2014年3月14日金曜日

03:54



今まで作った曲の中で一番新しい曲がこれで、僕はこの曲の歌詞を本当に気に入っている

前半はこれまでいろんなことをやって来た自分のことをまとめたものだし
後半部分はそれをふまえた今の自分のことを書いている。
朝起きたくなんてないしパンとコーヒーを詰め込んで仕事にいく日々なんて
僕が本当に求めてるものではきっとないんだろうけど、どうにもならないんだろうからせめて楽しいことを見つけて、適当に区切りを付けて休もう、ってことです。

元々僕のバンドのコンセプトは音楽聴くのは好きだけどそこまで曲作るセンスないし忍耐強くもない自分がどれくらいまでできるか、っていう実験的な部分が大きくて、だからいちファンとして他のバンドをたくさん聴いてそれをまねしてみたり、いろんな要素を取り入れながら3年くらいやってきた。僕にとっては理想的な形で作品として残すこともできたし、たくさんの面白い企画にも関わることができた。だから僕は実験的な試みの成功者だと思っている。そんなバンドであまり意識せず一区切りつけようって歌詞の歌をあのタイミングで作ってしまったためにそれ以降もう曲作らなくていいじゃん!って思ってたんだけど、これからまた環境が変わって何か変化つける必要が出た時にはまた何か作りたくなりそうな気がしている。まとまらない・・

04:13

2014年1月22日水曜日

2:22

時間は有限で、例えば24時間だとか80年弱とかいう形で区切られているんだけど
どうもそれは皆にとって平等でないような気がする。朝7時に起きて夜0時には眠る生活は多くの人間にとって規範的で一種の定型となっているんだろうけど朝はやくに起きるのが苦手(意識の問題ではなく血圧とかそういうの)な人は多分その定型にはめ込まれるととても苦しい午前中を過ごさざるを得なくて活動時間はきっと規範的な生活に慣れている人たちよりも短いものになる。例えば僕達の一日は24時間でそのうち8時間寝ないといけなくて残りの時間で活動しないといけない時、走るのが得意な人、車を持っている人、というのでまず移動時間が平等でなくなる。同様に作業だとかそういうのも基本的には個人の能力律速になる(ようにするのが多分一番生産性が高いから)。でもそれって平等じゃないじゃん!というようなことをレッドブルを飲みながら2時まで作業を続けている人を見ながら思いました。

2:29

2014年1月20日月曜日

01:04

僕は手紙というものがとても苦手で、それは書くときにぼんやりとではなく自分とその相手を文章化して、かつわかるはずもない読むときの相手の気分まで汲んで書かないといけないからだ。(たまに偶然かすごく精度のいい勘かはわからないけど全部見透かされてるような手紙があってそういうのはとてもずるい)

きっと今僕がどういう気分でこの文字を打っているか全て分かる人はいるはずもないし
わかってもらう必要性がないと思っているからその場その場の言葉を大事にしたいし、あとから誰かの言葉を思い出して喜んだりムカついたりすることもなるべくしたくないと思っている。

週末は最高だったしまたこんな週末を過ごせたらいいと思うしその時には次の週末も楽しみに過ごせたらいいと思う。
何も手にできない期間が始まるだろうからせめて自分の健康とプライドくらいは大事にして過ごしたい。あとその期間が最小限になるように。
ゆっくり考えてしっかり文章ねるひまもない

2014年1月8日水曜日

2:40



最近久々にLiftという割と信頼に足るメディアを見つけたんだけど、
ここで面白い議論が紹介されていた。



雑学と教養は違うと内田樹が言ってて(http://blog.tatsuru.com/archives/000569.php)、そういやうちの地元のTSUTAYAでは新書はすべて「雑学・教養」という謎コーナーに並べられてるのを思い出した。新書って言ってもクソみたいな人生論の本ばっかなんだけど。なんかPHP文庫を見下している高校生は多いだろうな、PHP文庫にもいいのあるよとか言えるのが大人だけど面白くない。で、リンク先の話をしとくと、「雑学は文脈が無くて教養にはある」ってことが書いてる、と僕は思った。YouTubeでは音楽を聴かないようにしていて、かっこいい固有名詞がものをいうような時代は終わったし、それよりは文脈みたいなもののほうが大事だと思う。あとあと残るのはそういうものなんじゃないかなーと。たぶん、僕はそんなに音楽が好きじゃないからそう思うんだろう。ていうか純粋に音楽だけ好きな人とかいるのか。基本的に僕は人間にしか興味がないので、ランダムなものにも興味はない。オザケン知ってて有利(何にか知らんけど)だと思うのは、オザケンっていう強烈な人格でタグ付けというかチャンドラーもアズテックカメラも語れちゃうかもしれないってことで、インテリになりたいならオザケン聞くべしな感じある。それだけじゃないけどあえて軽く言うならこんな感じに。東京住みたい。都会の方がいろんな部分で人の手がかかってると思う。なんか石田衣良の小説で「日本の中心は六本木、お台場…テレビ局がある場所さ」みたいな会話があったけど、それは関係ないけど、やっぱ東京じゃないと。ランダムどうこうのはなしはもっと考えてみたい。今日書いたのではだいぶ結構甘いと思う。
alfooでは文章を10分以内で書くことにしたので、これくらいに。
http://lieeeft.tumblr.com/post/72549936013

彼の議論の一番優れている部分は彼の持っている知識で持って内田樹のアカデミックな議論を紹介しているところだと思う。
(彼はたぶん人生論の本は読んだことがあってもアカデミックの経験はないだろうから)

まがいなりに、いやいやにアカデミックを経験した身からすれば内田樹のいう教養はすなはち一般法則や経験からくる知的直観というやつなんだろうけど、彼はそれを文脈という言葉で置き換えた。僕はここで文脈を用いるのは少し違うのではないかなと思う。
なぜかというと文脈といってしまうといけないかというと、文脈というのはある固有名詞にたどり着くに至る情報系そのものやその内容をさしていて、それ自体は一般法則に基づくものではなく事実にすぎないから、もしくはその情報系自体が僕たちの認識する世界一般という文脈の一端でしかないと僕は考えている。
内田樹のいう教養は「これがこういう流れできてるから、きっとあれもこうなんだろう。」ということでありまたそこにおいて正誤は問われない。(誤っていた場合は自分の認識する流れをアップデートする必要がある。)
雑学にも文脈はある(例えば「だいたいの液体は凍らせると体積が小さくなるけど水は凍らせると体積が膨張する」というと雑学だけどこれは水を凍らせると体積が膨張する、という事実を水以外の多くの液体は凍らせると体積は縮小するという文脈にあわせていうことで成立していると僕は思う)

ここでしたいのは彼のあげあしとりじゃなくて、彼なりの教養と雑学の認識による議論の理解だ。
youtubeで音楽を聴かないというのは誰かがツイッターで貼った曲を聴いてこれだ!と思うようなランダム性の排除で、彼の主張する彼のポリシーはあくまで音楽は音楽を作る人やそれを語る人の人間性の上にあるものを汲み取りたいということなんだと思う。
(僕は音楽も人にも興味があるから彼のいう音楽だけ好きな人と彼の間くらいにいる。)
オザケンの議論もインテリのキャラクターを得るためのモデルとしてオザケンをあげる中でオザケン(というインテリ)はチャンドラーやアズテックカメラを文脈を持っている、手っ取り早くインテリのキャラクターを得るなら同様の文脈を辿るという方法があるのではということか。(ここは割と雑な展開の仕方)
日本の中心は東京じゃないと、日本一人が多くて日本一多くの文脈がある場所なんだから最もいいモデル、文脈を見つけるためには。これは僕が2年前くらいに考えてたこととほとんど一緒だ。

彼の議論が興味深かったのはたぶん彼が僕と同じような文脈を持っていたからなんじゃないかなって思う。僕はランダム性の上で得る雑学と全く別の枠である教養をどちらも持ってごったにしないのがたぶん偉い人なんじゃないかなという結論にいたったので自分用メモで偶然見つけた彼のブログ記事を分析するしYouTubeのリンクばんばん開いてよかったらメモするしでもそれは僕自身の文脈の中心じゃなくてあくまで僕の趣味趣向(たぶんこれが僕の教養)の一端として持っておきたい。

彼が10分で考えたことを20分使って理解しようって思ったのでちょうどいい感じ
 2:56

2014年1月6日月曜日

2013best

2013best(コピペ)

2013年である必要がない音楽をたくさん聴いた一年間だった。
Captured Tracks(特にDIIV,BeachFossils,HeavenlyBeat)とペインズ以降の幻影(後半にはほとんど聴かなくなったけど)、あとは広義のアイドル。

ヒットチャートのレコードはyoutubeで聴いたし、欲しいレコードたくさん買い逃した。
音楽を聴くのは来年から。もしかしたら音楽への偏執は終わっちゃうのかもしれないけど
それをもたらしたのが今年1番と2番目によく聴いた音楽だったのでまぁいいかなって。
2014年はかっこよく暮らしたいように暮らしたい。

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DIIV – Oshin
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ミツメ – eye
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2013年12月31日火曜日

23:50

残りの10分は何も考えないか、すべてを考えようと思っていたので
ひとまず書き留めておこうと思った。

いろいろなことがあったし周りで本当に幸せになってほしい人が幸せになり始めたし
僕にいたっては人の幸せを祈る余裕がある状態になっている。

人との出会いに感謝、という言い方がいいのかはわからないけど
出会えてよかった縁はたくさんあるし、去年まであまり大事にしなかったところだけど
来年からは大事にすべきなのかなと思う。

よいお年を迎えられそうで本当によかった。
結局いろんな人から連絡がきてゆっくり自分のこと振り返る時間もないし
それがかなり恵まれている部分なのかもしれない。

2013年12月27日金曜日

3:18

・価値と意見の対立

価値の定義は人によって違うし価値観が違う人の場合には
たとえその人が"価値"を持っていても切る勇気が必要なことがある

もしくは自分が切られてしまうのでもいいのだけどそれではあまりに悲しい
なぜかというとそこには僕の主張がないからで、つまり僕は第三者として
僕にとっては空虚なものを見届けることになるからだ。

怒りにまかせることは簡単であるけど、全体の利益を考えたときに立ち戻るべきは場の定義で、
場を定義して初めて自分が違和感を覚える主張が場にそぐわないという主張を行うことが出来るのだ。世の中というのはそういう風にできているし今僕が思うまま意見をぶつけたところでそこでは対立する2つの主張が存在するだけでおそらくはもっともらしい主張をする(倫理、空気と言ったものを持ち出して)どちらかがマジョリティを獲得して優位となるだけでそこには何らの生産性もない。
意見の対立においてはそれらを突き合わせた上でまったく異なる新しい案が創出されるべきだ。なぜなら元の2つの主張はそれぞれ主張を持つ個人に端を発するが、より良い意見を創出しようという発想は意見の対立に端を発するわけであり、この場合においての目的は個人の目的の達成ではなくあくまでより良い意見の創出であるからだ。 発する点、目的が異なるからにはそれは全く新しい意見である、という発想の転換もなされるべきである、というのがこの根拠に当たる。

考え方がまとまらないのでひとまず以上